私の母親の実家は,大阪船場で金網の卸業を営む商家だった。あまり詳しくは知らないのだが,小さいものはザルに使う金網から,大きなものは学校のバックネットまでを扱っていたと聞いている。両親に連れられてときどき訪ねていくと,広い土間にたくさんの金網類や見慣れない道具が置かれていたが,子供が勝手に触ってはいけないことになっていた。
小学校就学の前だったと思う。ある年の正月明けに訪ねて行ったとき,私と妹はなにやらよそ行きの服を着せてもらっていたようだ。「ようだ」というのは自分でははっきりした記憶がなく,あとで父親の撮った写真を見てわかったことだからだ。母親の実家とはいえそんなにベタベタした付き合いでもなかったから,2時間も茶のみ話をすれば十分だった。私たち一家は早々に退散し,お正月の一日を楽しむために大阪の中心街へ繰り出した。ハレの日だった。私のポケットにも,貰ったお年玉がちゃんと入っていたのである。
少し歩くと宗右衛門町に出る。かに道楽の角から北へ歩けば心斎橋,南に歩けば難波方面。どちらに進んでも,にぎやかなアーケード街を抜けてデパートに行きつく。昭和30年代半ば(1960年ごろ),庶民にとってデパートで買い物をするというのは特別なイベントだった。そもそもデパートに出かけるときは,男性は背広姿,女性はワンピースにハンドバッグという出で立ちが当たり前だった時代である。その日は母方の実家へ年賀の挨拶をすることもあって,私たち一家はそろってよそ行きの服をめかしこんでいた。デパートで買い物をするにも丁度相応しい格好だったわけだ。そんなの気にせんでもええやん,と面倒くさがり屋の私などは思うのだが,当時はそうもいかない雰囲気だったらしい。
子供にとってデパートの楽しみと言えば,オモチャ売り場と,大食堂と,屋上遊園地の3点セットだった。その日,家族とともに訪れたデパートで,おそらく私は貰ったお年玉でオモチャかディズニーの絵本を買い,そろって大食堂でご飯を食べたに違いない。きっと妹はお子様ランチを,私はオムライスを注文したことだろう。親父はビール,母と私たち兄妹はバヤリースを飲んだかもしれない。けれども,そのあたりの記憶は正直なところ,まったくといっていいほど残っていないのである。
唯一残っているのが屋上遊園地での記憶だ。人工衛星を模した透明のゴンドラに乗り込み,タワーの頂点から延びたロープで吊り上げられて,大阪の空中を大きく回転したときの景色である。数時間前まで歩いていた繁華街が眼下遥かに見え,その合間を豆粒のような自動車と小アリのような人の群れが蠢いていた。視線を上げると,ビルや人家がひしめく大阪平野が広がり,それを取り囲むように生駒山系をはじめとした山並みが連なっていた。街の中心部にあるデパート屋上の大型遊具。その頂上からしか味わえない風景が,子供心にもしっかり焼き付いていたのである。
私と同じように,デパートの屋上遊園地での思い出を持つ人は,ほかにもいるようだ。少しネットを検索すれば,思い出の記録やブログ記事がいくつもヒットする。ところが現在でも残っている屋上遊園地は全国で5施設くらいらしく,しかも規模はかなり小さくなっている。先ほど,「オモチャ売り場,大食堂,屋上遊園地」が子供にとってデパートの楽しみの3点セットだったと書いたが,このうちオモチャ売り場は今も変わらず子供の憧れの場所であり続けている。また往時の大食堂のようなものはなくなってしまったかもしれないが,デパートの最上階付近には今も食堂街が広がっていて,家族団らんの場となっている。なのにどうして屋上遊園地だけが,ほぼ絶滅状態と化してしまったのだろうか。
屋上遊園地が最盛期を迎えたのは,1960年代後半から1970年代前半までと言われている。だが1970年代には,デパートでの大規模火災が連続して発生しているのだ。最たるものは1972年に大阪の千日デパートで発生した火災で,死者118名,負傷者81名にのぼる戦後最大のビル火災となった。ほかにも水戸市の中央ビル火災(1970年),熊本市の大洋デパート火災(1973年)と連続したことで,消防法が大幅に改正され防火管理の強化がうたわれるようになった。物品販売店でのスプリンクラー設置義務などと併せて,屋上は避難場所としての機能を拡充するよう求められたのである。観覧車やジェットコースターといった大型の遊具を屋上に設置することに,厳しい制限が加えられるようになったのだ。
しかし,それは大きなきっかけではあっただろうが,屋上遊園地の衰退の原因はもっと他にもあったのではないかと思える。その1つが,屋上でのアトラクションの変化である。大型の遊具で遊ぶことより,子供たちの興味の対象がウルトラマンと怪獣などのショウ・アトラクションへと変化していったことが大きいのではないか。遊具は一度乗れば二度は乗らないかもしれないが,ウルトラマンや戦隊ヒーローのショウはその度ごとに少しずつ内容が異なり,子供を飽きさせない工夫に溢れていたのだ。
このことは子供を楽しませる手段が,ハードウェアからソフトウェアへの変化に則ったと考えられはしまいか。現在のテーマパーク,例えば東京ディスニ―ランドにしても大阪のUSJにしても,様々なアトラクションは多くの来場者を楽しませているが,それは遊具・施設そのものがウケているのではなく,そこに展開される世界観がウケているわけだ。遊び方に「昔」と「今」があるとしたら,昔はハードウェア的,今はソフトウェア的という差異の構図が,大雑把ではあるにしても見てとれるのではないだろうか。
ソフトウェアの遊びを覚えた子供たちは,しばらくしてゲームの世界にも自然に意識を伸長させていった。1978年に登場したスペースインベーダーは,子供の頃に屋上遊園地の遊具で遊んだ世代の間でブームになったが,どう見てもハードウェアに依存したシューティングゲームだ。しかし1983年のゼビウスを皮切りとしてその後のRPG(ロールプレイングゲーム)へと繋がる流れは,遊びの世界にそれまでになかった世界観を展開していったのである。今の子供たちが『遊戯王』のカードゲームに興じているのを見て,古い屋上遊園地世代には何が何やらわけがわからないだろう。小さなデュエリストたちがカードの切り合いの向こうに見ている世界を,いまの60代以上の多くは想像することができないからである。遊びが劇的に変化してしまったことで,世代間のギャップが生まれるのは仕方のないことなのかもしれない。
屋上遊園地の話も,何歳ぐらいまでなら共通の話題としてあつかえるのであろうか。参考になりそうなのが,2007年の劇場版『ケロロ軍曹』である『深海のプリンセスであります!』だ。このストーリーの重要な時代背景に,日向夏美と冬樹が子供のころ訪れたデパートの屋上遊園地が登場する。コミックス版を見ると,規模は小さいながらも観覧車が設置されている。あとはゲーム機や,硬貨を入れるとのそのそそ歩くパンダ人形など。アニメの中の現在では少し前に閉園されたという設定なのだが,中学3年と1年の姉弟が子供のころを2007年から逆算すると,2000年前後ということになる。屋上遊園地のほとんどが閉園に向かう時期に,何とか残っていた施設といったところだろう。そして子供のころにそこを訪れた夏美と冬樹は,現在30歳前後という計算になる。
今やデパートという商業施設そのものが,かつてほどのステイタスを輝かせてはいない。デパートに出かけるのはハレの一日ではなく,日常の一部にどんどん近くなってきている。その屋上に遊園地が存在していた時代の幻を見ようとしても,水面に落とした一滴の墨汁のようにすぐに溶け込んで消えてしまう。ただ,家族で過ごした時間というほのかな記憶が,色褪せたモノクロームの写真の姿で脳裏を通り過ぎるばかりである。
♪ 『水無し川』 吉田拓郎
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