中央線が浅川を渡るその時

Rambling Column with my favorite Music and some Alcoholic Beverage

廃語の風景⑲ アドバルーン

13歳の美空ひばりが『東京キッド』を歌ったのは,1950(昭和25)年。当時はまだ戦後の占領政策が続いており,私などはこの世に影も形もなかった。折しも朝鮮戦争による特需で好景気が訪れ,日本は戦災からの復興に大きく踏み出した時代である。

♪ 空を見たけりゃ  ビルの屋根

   もぐりたくなりゃ  マンホール

建築基準法が施行されたのも同じ年だ。敗戦後5年が経過し,空襲で焼け野原となった東京の街にも建設ブームが訪れようとしていた。街のあちこちに新しいビルディングが建ち始め,ところどころに舗装された道路が現れ,足元には真新しいマンホールも見受けられるようになってきた。そんな変革の時代を背景に,『東京キッド』は空前のヒットとなったわけである。

やがて都心にはオフィスビルが軒を連ねるようになり,地上から空を仰げばビルの屋根が稜線のように見えたことだろう。ターミナル駅の周辺では新しく建てられた商業ビルやデパートが,より豊かな生活を目指して活気を取り戻していただろう。デパートの屋上から何本も浮き上がった色鮮やかなアドバルーンは新時代の繁栄の象徴となり,人々の目には明るい未来への懸け橋のように映ったに違いない。

そんなアドバルーンを見かける機会は,今ではほとんどなくなってしまった。その栄枯盛衰の風景を少し追ってみたい。

 

アドバルーンは,「広告」を表す advertisement と「気球」を表す balloon を組み合わせて作った和製英語で,一般には「広告気球」と訳される。直径2~3mの気球の中には空気より軽いヘリウムガスが充填されている。だからそのまま空中に放てばどこまでも飛んで行ってしまうので,ロープをつけてその端をビルの屋上などに係留しておく。そのロープで繋がっている部分に宣伝文句などを書いた垂れ幕を固定して掲揚すると,遠くからでも宣伝文句が視認できる。浮遊する気球に引っ張られ,空中高く広告の幕が掲げられる様子が人目を引き,宣伝効果が上がるというわけだ。

意外に思われるかもしれないが,実はアドバルーンは1907(明治40)年に日本で考案されたものである。実際に民間の広告に使用され始めたのは大正時代からで,高いところに垂れ幕を配置できる割には簡単な設備で事足りる。費用が安いこともあり,昭和に入ってますます広く用いられるようになった。

日本でアドバルーン広告が発達した一方,欧米ではあまり用いられることはなかった。それは至極簡単な理由からだ。垂直方向に掲揚される垂れ幕は,タテ書きができる日本の文字には都合が良くても,ヨコ書きしかできない欧米文字にはまったく向いていないからである。ヨコ書きのアドバルーン広告を打つためには最低でも気球を2個打ち上げ,その間に幕を張るしかないから不便なのだ。それで欧米では,側面に宣伝文句やロゴマークなどを描いた大型の気球を空中に浮かべるか,あるいは飛行船を飛ばすといった方法が採用されたようである。

アドバルーンは広告宣伝のためだけではなく,1936(昭和11)年に起こった二・二六事件の際にも使用された。クーデター鎮圧のため,「勅命下る 軍旗に手向かふな  戒厳司令部」と書かれたアドバルーンが首都東京の空に掲揚されたのだ。参加した将兵たちはどんな思いで,この物々しい文句が翻る様を見上げたことだろうか。

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:February_26_Incident_Balloon_Banner.JPG

 

アドバルーンを使った広告が最盛期を迎えるのは,高度経済成長期の昭和30~40年代前半(1955~1969年)にかけてだ。直接一次資料で確認した数値ではないが,多い時で1日に100本以上,年間では10,000本以上のアドバルーンが,この国の空に舞い上がったと言われている。都市部ではデパートなど大型商業施設の屋上から掲揚されることが多かったが,郊外に行くと個人商店からも掲げられた。建物の屋上からだけでなく,周囲の田畑を借りて掲げられたりもしたらしい。店舗の新装オープンや,お中元・お歳暮・バーゲンの時期に合わせて,アドバルーンの数は増えた。商業施設だけでなく各種イベント会場でも,これを利用してイベントの内容を宣布したり,客寄せの面でも大きく効果を発揮したりした。

高度経済成長の時代は,とにかく大きく派手なものがウケた。目立つことが重要だった。アドバルーンという広告メディアは,そうした要望にふさわしい形態となった。都市生活者を中心に所得は右肩上がりのグラフを描き,家庭の中には3種の神器と呼ばれる電化製品が急速に普及した。やがてモータリゼーションの波が訪れ,マイカーを持つことも夢ではなくなってきた。心の中に上昇志向を持つ多くの人々は,常に視線を上に向けて暮らしていこうとしていたのだ。

 

アドバル-ンに翳りが見え出したのは,カラーテレビの普及が目覚ましくなった1970年代である。ひとたびテレビのスイッチを入れるや,鮮やかな映像と音楽に彩られた広告がいくつも流れ,大衆の消費行動はテレビコマーシャルによって促される時代となった。「広告は時代を映す鏡」と言われたのもこの頃である。テレビの持つ広範囲な影響力と映像の圧倒的なアピールは,たちまちのうちにアドバルーンを凌駕した。加えて,航空法の見直しや都市景観条例の整備なども,アドバルーンには不利に働いた。

時代が進むと,都市部では高層ビルの建築が目立ってきた。アドバルーンが係留されていたデパートの屋上よりも,はるかに階層の高いオフィスビルやマンションが立ち並ぶようになったのだ。次第にアドバルーンは都市の景観の中に埋もれてしまうようになり,広告としての優位性を保てなくなったのである。そうなるとアドバルーン広告にかかる費用対効果も,急速に下落していく結果となった。

さらに時代は超高層ビルの出現を迎える。かつて東京の淀橋浄水場跡地を再開発した新宿副都心には,今では高さ100mを超える超高層ビルが数十棟単位で林立している。48階建ての東京都庁第一本庁舎(243メートル)をはじめとして,200メートルを超えるものも10基以上ある。そんな街の底辺に立つことがあったら,いちど超高層ビルの屋上を見上げてみるといい。首が疲れて,何分も見上げていることは困難なことがすぐにわかる。

 

アドバルーンには,適正仰角があるように思える。例えば8階建てのデパートの屋上から舞い上がったアドバルーンは,近くからでも少し離れたところからでも,見上げて眺める楽しさがあったのだ。だが高層ビルの屋上から掲揚された場合はどうだろう。近くで見上げるには首がつらいし,かといって離れて見上げればキャッチコピーは小さすぎて視認することができまい。ましてや横浜ランドマークタワーあべのハルカスの屋上からアドバルーンを掲げるなど,誰も思いつこうとはしないだろう。

美空ひばりが「♪空を見たけりゃビルの屋根」と歌ったビルの屋根は,少し階段を昇れば自分の足で到達できる高さのところにあったのだ。もしかすると人々はその高さを見上げるのと同じ仰角で,人生の夢や希望を追っていたのかもしれない。超高層ビルの屋上はあまりに高く,さすがに自分の足ではたどりつけない。だから西新宿の底辺に立って超高層ビル群の屋根を見上げた時,心には絶望感に似た感情を抱いてしまうのだろう。

超高層ビルの最上階が展望台になっているケースもある。つまり超高層ビルの最上階は,下から見上げる場所ではなく,上から見下ろす場所としての意味を持っているのだ。そして人はみな,スマホのカメラを下に向けて下界の写真を撮る。電車に乗ってもうつむき加減にスマホから目を離さない。

絶望の深さと夢の高さは比例する。戦後の焼け跡から高度経済成長へと時代が移り変わる中で,アドバルーンは上を見て暮らしていこうとする人々の心に小さな花を咲かせた。現実がその夢や望みを遥かに越えていったとき,アドバルーンは空から消えた。だからといって,上を向いて歩く心を人が容易く手放していいわけはない。視線の向ける先や角度を選択する自由を,私たちは両手に余るほど持っているのだ。

 

♪『上を向いて歩こう』 Sing for Hope プロジェクト

https://www.youtube.com/watch?v=lBNJIhfa9Zs&list=RDlBNJIhfa9Zs&start_radio=1

 

 

レストルームから愛をこめて

ここのところ目を通さなければならない資料が多すぎて,少しブログから遠ざかってしまった。まとめた原稿を渡す〆切は明日(1/13)なので,そのあとは少し時間に余裕ができるだろう。年末年始に読もうと用意していた本も,半分ほど残ってしまっている。加齢とともに読み進むスピード,というか読みながら内容を把握するスピードが衰えてきているので,思った以上に時間がかかるのだ。こういう現象は抗っても仕方がないから,受け入れてお付き合いしていくほかはないのだけれど。

 

ところで,我が家には1階と2階に1つずつトイレがある。1階のは女性陣が,2階のは私が使用する,というのが基本ルールである。ただし夜中は女性陣も2階のを使うことがあるが,私が1階のトイレを使うことは一切許されていない。自然発生した不平等条約なのだが,まあそれはそれでいい。なぜならその不平等の代償として,私は2階のトイレ内に小さな図書館を設ける権利を独占的に行使しているからである。

この図書館の蔵書数は80~100冊程度。便器の後ろ側の壁から窓枠の部分にかけて2つの段差があり,そこに本を並べている。ブックエンドなども使っているから,雑然とした感じはしない。とはいっても蔵書の8割以上はコミックス。場所が場所だけに軽い読み物が一番だし,あまり難解な本だと血圧が上がって具合が悪いからだ。

現在の蔵書の一例を記すと,『何度,時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?(藤本ケンシ)』『フランケン・ふらん木々津克久)』『世にも奇妙な漫☆画太郎漫☆画太郎)』『新世紀エヴァンゲリオン庵野秀明)』『Dr.キリコ 白い死神(SANORIN)』『ワールドトリガー葦原大介)』『ケロロ軍曹吉崎観音)』『鬼平犯科帳さいとう・たかを)』。ほかにも『ぼくんち西原理恵子)』や『ブラックジャック手塚治虫)』など,古いものも結構混じっている。コミックス以外では,筒井康隆氏,阿刀田高氏の小説をはじめとして,文庫本・新書本が10冊ほど。岩波文庫の『伊勢物語』まで仲間入りしているのは,ご愛敬であろう。

かつては『金色のガッシュ雷句誠)』『天 -天和通りの快男児福本伸行)』『ジャングルの王者ターちゃん徳弘正也)』『花の慶次 -雲のかなたに-(原哲夫)』『キン肉マンゆでたまご)』などが棚を賑わせたこともある。時とともに少しずつ蔵書の入れ替わりを見せながら,今日まで満足度の高い図書館として評価され続けている。当たり前だよ,お客オレ一人だし,館長もオレなんだもん。

 

私は昔から,トイレで本を読むのが大好きだった。本を持って入るのを忘れると便意を我慢しつついったん引き返し,手近な本を持参してはもう一度トイレに入り直していた。トイレで読むとなぜか本の内容がスッキリと理解できるように感じられ,日に日にそれは習慣化していった。念願の戸建てに住めるようになって最初のミニ図書館を開設できたときは,仕事用の部屋以外にもう1部屋割り当てられた気分になり,個室での密かな至福から抜け出せなくなった,いや抜け出したくなくなったのである。

ただし家族からは不評も買っている。一度入館したら,私がなかなか図書館から出てこないからだ。食事に呼ばれて「今行く,その前にトイレ」と答えたきり,30分以上こもっていたなんてのはよくあること。2階で物音がしないからてっきり私が外出したものと思っていたら,1時間以上たってトイレからぬぼーっと出てきたからびっくりした,と言われたことだって何度かある。「長時間トイレに座っていたら冷えて健康に悪いよ」と指摘されるのだが,そりゃ昔のトイレは寒いから尻を出しっ放しはたしかに良くなかった。けれど今のトイレは便座にヒーターが入っていて眠気を催すほど暖かい。誰もいない狭い空間でマンガを読んでいられるのはリラックスの極みであり,私としてはほんの小さな楽しみに水を差されたくはないのである。

 

そんな雪隠図書館の話を取引先の編集者としていたら,「そういえばかなり前に,『青木まりこ現象』というのが話題になりましたね」と言われた。その話題はたしかに私にも記憶がある。

事の起こりはバブル経済真っ只中の1985(昭和60)年,当時29歳の女性が『本の雑誌』に投稿した1通の体験談に「数年前から書店に行くたびに便意を催すようになった,理由がわからない」と記されていたことである。当の編集部はこれをおもしろがって雑誌に掲載したところ,同様の悩みを持つ読者からの反響が意外に大きく,ついに同誌面で「いま書店界を震撼させる現象」という特集を組むまでに話が大きくなった。この話題は他の雑誌やメディアにも及び,投稿者の名をとって「青木まりこ現象」と呼ばれるに至ったのである。

単なる都市伝説だと笑い飛ばす者がいる一方,新刊書の匂いが便意を誘発するという説や本を見たときの条件反射的なものという説,過敏反応によるという説,罹患する人は遺伝によるという説など,さまざまな意見が出された。出版社の社員や大手書店員,作家,専門家の中にもこの現象を認める人たちがコメントしたことで,信憑性がぐんと増した。詳しい議論の推移についてはこれ以上触れないが,臨床調査による明確なデータが出ていないにもかかわらず,今でもこの現象は語り継がれているのである。

取引先の編集者とひとしきり話し合ったことで,「ああ,俺も『青木まりこ現象』を持つ一人なんだな」とそのときは納得しかけたが,よくよく考えてみるとそうではないことに気づいた。青木まりこ現象の場合は「書店に行くと便意を催す」だが,私の場合は「便所に行くと本意(?)を催す」なのである。〈書店に行く→便意を催す〉の順序では決してなく,〈便所に行く→本が読みたくて仕方がなくなる〉という順序だから,まるで逆である。

ならば,この現象はどうして起こるのか。

 

少し調べてみると,「ブルーマインド(Blue Mind)」という研究分野に行き当たった。これは「レッドマインド(Red Mind)」と対比される概念である。「レッドマインド」が怒りや絶望,脅迫といった強いストレスを引き起こす感情を指すのに対し,「ブルーマインド」は平和,ゆとり,希望,幸福感といった穏やかな感情を指している。そしてそれは「水がもたらす安心感」に由来するという理論である。そもそも人は母親のお腹の中にいるときから羊水の中で生命を育まれるものだから,水を近くに感じることは生命の維持にとって絶対的な安心感を得られる。だから日常生活の中では風呂場でリラックスすることができるし,湖畔や静かな浜辺でくつろぐとゆったりした感情に身を任せられる,というわけである。

潮騒や川のせせらぎといった水の音は副交感神経に働きかけ,心拍数や血圧を低下させ,脳を落ち着かせる効果があることで知られている。そのようにリラックスした状態で少し何かに意識を向けると,脳内の記憶や感情を整理する領域が活性化され,一言でいうと「頭が冴える」という状態になる。思いもよらない集中力が得られたり,考えがまとまっていいアイディアが浮かんだりすることがあるらしい。

これだ,と私は納得した。トイレもレッキとした水場である。川のせせらぎのような水音もたしかにするし,そんな環境で排泄するという行為は水場の自然と一体化することに繋がる。そしてそこに本を読むという作業を持ち込むことで,私の霞のかかったような頭でもかなりパフォーマンスの良い状態にしてくれるという理屈だ。「青木まりこ現象」より遥かに筋が通っているというものである。

 

これはさらに研究する余地があるし,図書館ももっと充実させなければならない。私の雪隠図書館ライフは,今後ますます自信に満ちて豊かなものとなっていくだろう。蔵書の数も増やしていかなければならないし,場合によっては設備投資が必要かもしれない。家族の鉄槌が振り下ろされなければの話だが。

 

♪『バスルームから愛をこめて』 山下久美子

https://www.youtube.com/watch?v=EqVIwD2c_gA&list=RDEqVIwD2c_gA&start_radio=1

 

 

廃語の風景⑱ 忘れられつつあるお正月遊び 3選

唱歌「お正月」は,正月がくるといろいろな遊びができるので,楽しみにしている子供の心情を歌ったものである。歌詞の一部を見てみよう。

(一番の歌詞)♪ お正月には凧あげて こまを回して遊びましょう

(二番の歌詞)♪ お正月にはまりついて おいばねついて遊びましょう

御節料理の品々にそれぞれ良き縁起につながる意味合いが込められているのと同様に,正月の遊びにも縁起のいわれがある。例えば凧あげは,高くあがるほど運気上昇・健康増進・立身出世につながるとされる。風に吹き流されることから,厄払いに通じるともいわれている。独楽回しには物事が円滑に回る,お金が回ると言った意味合いがあるのと,独楽の中央には芯が通っていることから,筋を通す,思いを貫く,独り立ちするといった意味でも縁起物とされている。

ほかの遊びにもそれぞれいわれはあるのだが,ここで1つ不思議なことに気づく。日本古来の正月遊びでは,今なお残っているものもあれば,ほとんど見かけなくなったものもあるということだ。例えば「お正月」の一番で歌われている「凧あげ」と「独楽回し」を比べてみるといい。凧あげで遊ぶ子供や親子連れは広めの公園に行けば今でもいるが,独楽回しに興じている子供は,私はここ何年来ついぞ見たことがない。

この差はどんな事情や理由からくるのだろうか?

 

『独楽回し』

私は子どもの頃,凧上げも独楽回しも遊んだことがある。広い公園や河川敷あたりでは凧あげを,路地裏や家の庭先では独楽回しをと,場所に応じて遊び分けていた。昔は原っぱと呼ばれる,誰かの所有物なんだろうけど放置されているだだっ広い土地もあって,凧あげをするのにも都合がよかったのだ。

凧も独楽も,うまく操るにはそれなりに熟練が必要である。上手な子は無条件で称賛されるわけだが,より難度が高かったのは独楽回しの方だったろう。というのも,凧あげは下手くそでも糸を引っ張って走り回れば数メートルはあげることができ,レベルに応じてそれなりの達成感は得られたのだ。だが独楽回しはそうはいかない。独楽を回せれば遊びとして成立するが,回せなければ明らかに失敗であって,自分が遊びに参加しているとは思えないのである。縄の巻き方,独楽を投げる角度,縄を引き戻すタイミングとスピードなど,すべての要件が揃わなければ独楽を回すことはできない。そこに至るまでには,根気よく努力を重ねなければならなかった。凧あげのように「下手は下手なりに楽しめる」というわけではないので,独楽回しはずっとハードルの高い遊びだったのだ。

凧あげが生き残った一方で独楽回しが敬遠されてしまったのは,おそらく遊びの難度という側面が大きかったからに違いない。加えてアメリカ生まれのカイトの出現も,凧上げにはプラスに働いた。和凧よりもはるかに扱いが簡単で,子供がより容易に凧あげを楽しめるようにできているのである。今の子供たちが遊んでいるのもほぼ全部ゲイラカイトであり,奴凧のような和凧はオモチャ屋さんの店頭にもそうそう置かれていない。

独楽回しには目と手の協調性やバランス感覚,指先の器用さを養う効能があるとも聞く。それで一部の幼稚園などで,教材として使われることもあるのだそうだ。この動きがもっと盛んになれば,独楽回しは廃語から復活することになる。それもまた縁起の良いことだから,観察していきたいところだ。

 

『羽根突き』

羽根突きの羽根は,ムクロジという植物の種に鳥の羽根を数枚刺したつくりになっている。ムクロジは「無患字」と書くため,それを突き合うことで病気除けになるという意味合いがある。また羽子板は別名を胡鬼(こぎ)板ともいうそうで,「羽子」も「胡鬼」もトンボの呼び名であるということだ。羽根がトンボ返りをして落ちてくる様子からつけられ,トンボが害虫を餌とすることから邪気払いに通じると考えられたようである。

浅草寺の羽子板市は毎年12月17~19日に行われるが,とくに18日は納めの観音ご縁日ということで人出も多い。市で売られている羽子板には,正月の縁起物や歌舞伎役者などの造形が施されている。地方によっては女の子の無病息災を祈り,初正月に羽子板を贈る慣習もあるという。

私は小学校低学年のころ,図画・工作の時間に薄っぺらな杉材でできた無地の羽子板を配られたことがある。おそらく「正月らしい縁起の良い絵を描きなさい」とかなんとか指示されたのだろうが,どんな絵を描いたのかは覚えていない。遊ぶための羽根も配られたので,実際にそれを使って友達と羽根突きをしたことがある。遊びの出来は散々なもので,バドミントンならいざしらず,ほとんどラリーにはならなかった。

羽根突きには,負けると顔に墨を塗られるというルールがある。ほとんど昔のマンガ,『オバケのQ太郎』や過去の『サザエさん』の世界でネタになった話である。『おそ松くん』の六つ子はトト子ちゃんに負けて顔に✕印を描かれていたが,『おそ松さん』のニートたちは時代が違うからそうはならないだろう。あいつらこそそーゆー目にあったらおっかしーのにね。

それにしても羽子板は縁起物として今なお存在感を保っているが,羽根突きという遊びほとんど見られなくなっている。こんな例もあるものなんだなあ。

 

『福笑い』

屋内でする遊びも考えてみたい。まずは「双六(すごろく)」だが,これは今年一年,一歩ずつ良い方向に進んで結果を出せるように,という願掛けの意味合いがある。実際,江戸時代には「出世双六」なるものがあり,貧しい状態から努力を重ねて出世し成功をつかむというストーリーになっていたようである。何のことはない,『人生ゲーム』ではないか。『桃太郎電鉄』や『マリオパーティー』と同じではないか。双六は現代の子供たちにも大人気な遊びと言って,何も問題はないだろう。

「百人一種」や「カルタ取り」も,今に生きている遊びである。とくに百人一首には歴史や文化といった側面もあり,中学校や高校で国語の授業の一環として実施されることも多い。遊び以外の価値があることで,時代が変遷しても変わらず高い認知度や評価を与えられている。

ところがそれらと比べると,「福笑い」はもうほとんど遊ばれてはいないのではなかろうか。福笑いとは,おかめやひょっとこの顔の輪郭だけを描いた絵の前に目隠しをして座り,手探りで目や鼻や口といった顔のパーツをその上に並べていく。目隠しをしているから顔のパーツはまとまりのない配置なってしまい,ヘンな顔が出来上がる。それをみんなで笑い合って,福を呼び込もうという遊びである。もともとおかめは「お多福」と呼ばれ,文字通り縁起の良いふっくらした女性を表している。ひょっとこは「火男」に由来し,火の神様の象徴である。

縁起の良い遊びであるにもかかわらず福笑いが衰退したのは,おそらく屋内でする遊びの個人化が主流になったせいだろう。福笑いのような遊びは,笑いが笑いを呼ぶことを期待されているわけで,ある程度まとまった人数で遊んでこそ面白い。核家族の中で一人で楽しむ遊びに慣れた子供たちには縁の無い遊び方となったせいで,衰退してしまったのではなかろうか。コンピュータゲーム化した現代の双六に一人プレイモードがあることと,ここではっきりした差がついてしまうのである。

コンピュータを使った福笑いは作れないものだろうか。例えば目隠しをしながらマウスを使って,顔のパーツをランダムに配置していく。それを生成AIでピカソ風味や岡本太郎風味に仕上げるのだ。結構シュールな楽しみになりそうだが,まあアカンかなあ。

 

さて,大人の正月の楽しみと言えば,何といっても「姫始(ひめはじめ)」だろう。ちゃんと歳時記にも載っている新年の季語である。

姫始  光射し込む  朝の窓

姫始  雪の静けさ  響く声

「姫始」はもはや死語になりつつあるのだろうか?  死語ならいいが,姫始が廃語と化してしまったとき,この国の未来は確実に衰退の一途を辿ってゆくのである。

 

※「あの頃は幼くて,意味がわからなかった昭和歌謡」に1曲追加。

♪『夜明けのスキャット由紀さおり

https://www.youtube.com/watch?v=O9wYPirEcko&list=RDO9wYPirEcko&start_radio=1

 

 

廃語の風景⑰ 屋上遊園地

私の母親の実家は,大阪船場で金網の卸業を営む商家だった。あまり詳しくは知らないのだが,小さいものはザルに使う金網から,大きなものは学校のバックネットまでを扱っていたと聞いている。両親に連れられてときどき訪ねていくと,広い土間にたくさんの金網類や見慣れない道具が置かれていたが,子供が勝手に触ってはいけないことになっていた。

小学校就学の前だったと思う。ある年の正月明けに訪ねて行ったとき,私と妹はなにやらよそ行きの服を着せてもらっていたようだ。「ようだ」というのは自分でははっきりした記憶がなく,あとで父親の撮った写真を見てわかったことだからだ。母親の実家とはいえそんなにベタベタした付き合いでもなかったから,2時間も茶のみ話をすれば十分だった。私たち一家は早々に退散し,お正月の一日を楽しむために大阪の中心街へ繰り出した。ハレの日だった。私のポケットにも,貰ったお年玉がちゃんと入っていたのである。

少し歩くと宗右衛門町に出る。かに道楽の角から北へ歩けば心斎橋,南に歩けば難波方面。どちらに進んでも,にぎやかなアーケード街を抜けてデパートに行きつく。昭和30年代半ば(1960年ごろ),庶民にとってデパートで買い物をするというのは特別なイベントだった。そもそもデパートに出かけるときは,男性は背広姿,女性はワンピースにハンドバッグという出で立ちが当たり前だった時代である。その日は母方の実家へ年賀の挨拶をすることもあって,私たち一家はそろってよそ行きの服をめかしこんでいた。デパートで買い物をするにも丁度相応しい格好だったわけだ。そんなの気にせんでもええやん,と面倒くさがり屋の私などは思うのだが,当時はそうもいかない雰囲気だったらしい。

 

子供にとってデパートの楽しみと言えば,オモチャ売り場と,大食堂と,屋上遊園地の3点セットだった。その日,家族とともに訪れたデパートで,おそらく私は貰ったお年玉でオモチャかディズニーの絵本を買い,そろって大食堂でご飯を食べたに違いない。きっと妹はお子様ランチを,私はオムライスを注文したことだろう。親父はビール,母と私たち兄妹はバヤリースを飲んだかもしれない。けれども,そのあたりの記憶は正直なところ,まったくといっていいほど残っていないのである。

唯一残っているのが屋上遊園地での記憶だ。人工衛星を模した透明のゴンドラに乗り込み,タワーの頂点から延びたロープで吊り上げられて,大阪の空中を大きく回転したときの景色である。数時間前まで歩いていた繁華街が眼下遥かに見え,その合間を豆粒のような自動車と小アリのような人の群れが蠢いていた。視線を上げると,ビルや人家がひしめく大阪平野が広がり,それを取り囲むように生駒山系をはじめとした山並みが連なっていた。街の中心部にあるデパート屋上の大型遊具。その頂上からしか味わえない風景が,子供心にもしっかり焼き付いていたのである。

私と同じように,デパートの屋上遊園地での思い出を持つ人は,ほかにもいるようだ。少しネットを検索すれば,思い出の記録やブログ記事がいくつもヒットする。ところが現在でも残っている屋上遊園地は全国で5施設くらいらしく,しかも規模はかなり小さくなっている。先ほど,「オモチャ売り場,大食堂,屋上遊園地」が子供にとってデパートの楽しみの3点セットだったと書いたが,このうちオモチャ売り場は今も変わらず子供の憧れの場所であり続けている。また往時の大食堂のようなものはなくなってしまったかもしれないが,デパートの最上階付近には今も食堂街が広がっていて,家族団らんの場となっている。なのにどうして屋上遊園地だけが,ほぼ絶滅状態と化してしまったのだろうか。

 

屋上遊園地が最盛期を迎えたのは,1960年代後半から1970年代前半までと言われている。だが1970年代には,デパートでの大規模火災が連続して発生しているのだ。最たるものは1972年に大阪の千日デパートで発生した火災で,死者118名,負傷者81名にのぼる戦後最大のビル火災となった。ほかにも水戸市の中央ビル火災(1970年),熊本市の大洋デパート火災(1973年)と連続したことで,消防法が大幅に改正され防火管理の強化がうたわれるようになった。物品販売店でのスプリンクラー設置義務などと併せて,屋上は避難場所としての機能を拡充するよう求められたのである。観覧車やジェットコースターといった大型の遊具を屋上に設置することに,厳しい制限が加えられるようになったのだ。

しかし,それは大きなきっかけではあっただろうが,屋上遊園地の衰退の原因はもっと他にもあったのではないかと思える。その1つが,屋上でのアトラクションの変化である。大型の遊具で遊ぶことより,子供たちの興味の対象がウルトラマンと怪獣などのショウ・アトラクションへと変化していったことが大きいのではないか。遊具は一度乗れば二度は乗らないかもしれないが,ウルトラマンや戦隊ヒーローのショウはその度ごとに少しずつ内容が異なり,子供を飽きさせない工夫に溢れていたのだ。

このことは子供を楽しませる手段が,ハードウェアからソフトウェアへの変化に則ったと考えられはしまいか。現在のテーマパーク,例えば東京ディスニ―ランドにしても大阪のUSJにしても,様々なアトラクションは多くの来場者を楽しませているが,それは遊具・施設そのものがウケているのではなく,そこに展開される世界観がウケているわけだ。遊び方に「昔」と「今」があるとしたら,昔はハードウェア的,今はソフトウェア的という差異の構図が,大雑把ではあるにしても見てとれるのではないだろうか。

 

ソフトウェアの遊びを覚えた子供たちは,しばらくしてゲームの世界にも自然に意識を伸長させていった。1978年に登場したスペースインベーダーは,子供の頃に屋上遊園地の遊具で遊んだ世代の間でブームになったが,どう見てもハードウェアに依存したシューティングゲームだ。しかし1983年のゼビウスを皮切りとしてその後のRPGロールプレイングゲーム)へと繋がる流れは,遊びの世界にそれまでになかった世界観を展開していったのである。今の子供たちが『遊戯王』のカードゲームに興じているのを見て,古い屋上遊園地世代には何が何やらわけがわからないだろう。小さなデュエリストたちがカードの切り合いの向こうに見ている世界を,いまの60代以上の多くは想像することができないからである。遊びが劇的に変化してしまったことで,世代間のギャップが生まれるのは仕方のないことなのかもしれない。

屋上遊園地の話も,何歳ぐらいまでなら共通の話題としてあつかえるのであろうか。参考になりそうなのが,2007年の劇場版『ケロロ軍曹』である『深海のプリンセスであります!』だ。このストーリーの重要な時代背景に,日向夏美と冬樹が子供のころ訪れたデパートの屋上遊園地が登場する。コミックス版を見ると,規模は小さいながらも観覧車が設置されている。あとはゲーム機や,硬貨を入れるとのそのそそ歩くパンダ人形など。アニメの中の現在では少し前に閉園されたという設定なのだが,中学3年と1年の姉弟が子供のころを2007年から逆算すると,2000年前後ということになる。屋上遊園地のほとんどが閉園に向かう時期に,何とか残っていた施設といったところだろう。そして子供のころにそこを訪れた夏美と冬樹は,現在30歳前後という計算になる。

 

今やデパートという商業施設そのものが,かつてほどのステイタスを輝かせてはいない。デパートに出かけるのはハレの一日ではなく,日常の一部にどんどん近くなってきている。その屋上に遊園地が存在していた時代の幻を見ようとしても,水面に落とした一滴の墨汁のようにすぐに溶け込んで消えてしまう。ただ,家族で過ごした時間というほのかな記憶が,色褪せたモノクロームの写真の姿で脳裏を通り過ぎるばかりである。

 

♪ 『水無し川』 吉田拓郎

https://www.youtube.com/watch?v=9PCU_OH3F94&list=RD9PCU_OH3F94&start_radio=1

 

 

Onenga in 2026

謹んで新春のお慶びを申し上げます

               令和8年  丙午

 

本年の干支は「丙午」。

『陰陽五行説』においては,十干の「丙(ひのえ)」は火の陽を象徴。直天上の太陽に通じ,転じて草木が顕著に成長する状態を表しています。

十二支の七番目である「午(うま)」は,光や熱の気が最高潮に達する時期を表します。ものごとの進展と,それを支える行動力・スピードの意に通じます。

「丙午」の今年は,十干十二支共に火の性質や力を重複して受け,熱いエネルギーが満ち溢れる年になりそうです。

火力が高まりすぎて対人的に衝突を起こさぬよう気をつけながら,皆さま,どうぞ素晴らしい一年のスタートをお迎えください。略儀ながらご挨拶とさせていただきます。

 

♪ “Happy New Year“ ABBA

https://www.youtube.com/watch?v=X6bXfAH0NhI&list=RDX6bXfAH0NhI&start_radio=1

 



 

年の終わりに,ほろ酔い気分で実存主義的な何か

このところTVのニュースでは,帰省客でごった返す新幹線ホームの様子が頻繁に流れていた。ほろ酔い気分でそんな映像を眺めながら,かつては私もあの中の一人だったことを思い出した。そして,ああ,あそこはもう他人の街になっちゃったんだなあ,としみじみ感じ長い溜息をついた。生まれ育った大阪のことである。

 

一昨年の4月に,母親が亡くなった。10年以上前から妹の家の近くの施設に入居していた。晩年までさほど深刻な認知症もなく96歳で老衰ということだったから,大往生と言えるだろう。私も人並みに母親の死は悲しかったが,そのような最期を迎えられたことは,正直なところひとつの安心要素でもあったのだ。ただ,これで両親ともにいない身になったとわかったら,何やら自分の立っている足場が急に頼りないものに思えて,予期せぬ不安感に襲われたのも事実だった。

母は長らく大阪の実家で独り暮らしを楽しんでいたが,大腿骨骨折を患い,その後はいわゆる老人ホームに生活の拠点を移した。妹夫婦が近所に住んでいることもあり,母親自身はその距離感を不快には感じていなかったようだ。その後何度か施設を変えつつ,まだ元気なうちに身辺を整理したいということから実家の土地・建物を売却した。施設への入居料の支払いにも充てる必要があったためだろう。

まだ実家が存在していた頃は,ときどき母親の見舞いに行くにも,大阪・京都での仕事があるときも,実家に寝泊まりするのが常だった。近所の様子が時代とともに変わっても土地勘は健在だったし,実家の居室に布団を敷いて寝転がったとき,何より故郷に帰った実感が起きるのは素直に嬉しかった。だが実家が売却されたあとは,生まれ育った街でさえホテルを利用しなければならなくなった。ビジネスホテルの客室は,たとえそこが大阪であったとしても決して「お帰りなさい」とは言ってくれない。それは札幌や仙台や名古屋や岡山や福岡のホテルと同じなのだった。

その頃から大阪は,徐々に他人の街という意識が強くなりだし,母親が亡くなったことでその思いは決定的なものとなっていったのである。

 

大学を卒業したあと,就職した出版社に勤めるため私は東京に出てきた。今を去ること45年以上も前の話である。圧倒的に東京中心で展開されるメディアの世界で一人前になるんだ,この街に根を張って生きていくんだという覚悟を持って出てきたから,その時点で半分は大阪を捨てたようなものだった。けれども自分という人間の根底は大阪であり,その堅固な基礎の上に東京という建物を築き上げようという心づもりはずっと持ち続けていたのである。

実際,東京に住まいを構え,仕事をし続けて45年以上たつわけで,言葉も通常は標準語で通しているから,私が大阪出身だと知って「へぇ」と驚く人は多い。それでもなお私自身,今も東京を自分の街だと言い切るには大きな抵抗がある。ここは所詮,他人の街でしかないのだ。仕事の面からいくと,オーバーな表現をすれば一種の戦場である。また家庭生活の面からいえば,「この街が生まれ故郷である子供の親」という立場ではありつつも,自分自身は子供とはやはり異なる根っこを持っているんだと,折に触れ感じてしまう。

そしてここにきて,大阪もまた明らかに他人の街と思えるようになってきてしまった。東京も大阪も,どちらも私にとっては最も大切な都市であり,いっぱい足跡を残してきた場所であるのだが,どちらもついに「私の故郷」とは呼びきれない存在になっているわけである。それに伴って,大阪という基礎の上に東京という建物を築き上げようといった目論見も,どちらが上でどちらが下という拘りもなく,混沌に混ざり合っているのが自分だと思うようになってきたのだ。

 

そうした心境に至ったことは,一抹の寂しさはもちろんあるのだが,実は自分自身が望んで招いた結果なのだという確信めいた気持ちもある。突っぱねた言い方になるが,「生まれ育った大阪」とか「人生を賭けた東京」とかいう意識に囚われたくないという願望を,私は本質的に心中に秘めている気がするのだ。最も卑近な例を挙げれば,「大阪出身か,だから阪神ファンなんだ」などの言われ方が大嫌いである。私が60年間も阪神タイガースのファンなのにはそれなりの経緯や理由があるからであって,大阪出身だからではない。「生まれ育った大阪」や「人生を賭けた東京」といった大きくてかつ無粋な一括りよりも,私個人が経験したり考えたりした極々小さいことの積み重ねを,常に生きる糧と捉えていきたいのだ。

大阪や京都の街を歩けば,今でも胸が締め付けられるような,くすぐったさと切なさばかりのスポットがいくつもある。『廃語の風景』に登場させた街角然り。東京に目を転じると,自分の原点や結節点となり得る場所が,大阪以上にあちこちに存在する。もっと範囲を狭めれば,今このキーボードを打っている机の前だってかれこれ20年間も私の仕事場であり,故郷そのものと呼べるほどの空間なのだ。また私は柄にもなくときどき仏教寺院に出かけ,本尊の御前に座して静かに法界定印を結びしばしの瞑目。み仏との対峙の中に,心の故郷を感得する時間も持つようにしている。どれもこれも,個人的な志向や行いに過ぎないのだが,案外心の落ち着き処とは,このような自ら求めた小さいものごとの上にこそ宿るのではないだろうか。

 

今の私には,年末の帰省列車に乗って赴くべき処はない。故郷を失くした根無し草とも言えるし,目の前の小さな幸せの在り処が故郷であるとも言えるだろう。デカルトは Cogito ergo sum「われ思う,ゆえにわれあり」と言った。われが「どこに」あるかという答えはもともとないのだ。「われ思う」だけが唯一の真実ということなのである。

 

来る年が皆様にとって幸多き年でありますように。

 

♪ “KOMM, SÜSSER TOD ― COME SWEET DEATH“

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番外編 今は「廃語」ではないが,そのうち仲間入りする言葉 3選

『廃語の風景』というシリーズのコラムを書くにあたって,私はまず「死語」と「廃語」を明確に分けようと試みた。「死語」は,実体は存在するがそれを表すのに時代遅れになってしまった言葉を指す。例えば流行の最先端を行く若者はいつの時代も存在するけれど,彼らを指して「ナウなヤング」とは言わなくなった。これが典型的な死語である。

対して「廃語」とは,実体がまったく世の中から消え去ったか,あるいはほとんど見かけられなくなったことによって,日常的に使われなくなってしまった言葉と定義する。最近のコラムから引用すると,「よろめきドラマ」「種痘」「銀玉鉄砲」なんかがそれにあたる。

だから大雑把に言うと,死語は言葉の流行性・はやりすたりといったものに影響され,廃語は具体的な事物や現象の歴史性に影響される,ということになる。言いかえれば,死語が発生するのはその言葉が流行遅れと思われ始めたときであり,廃語が発生するのはその事物や現象の立ち位置が現在から過去に移行したときであるということだ。

以下に挙げる3つの言葉は,現在では世の中に生命力を保っているが,そのうち歴史の彼方へ立ち位置を変えてしまうと予測されるものである。その「時」はいつごろ,どんなふうに現れるのであろうか。その時に際して,私はどんな風景を書くことができるのだろうか。ワクワクすると同時に,結末をきちんと見届けるまでは絶対に死ぬわけにはいかないという使命感が胸の中に怒濤(どとう)の如く押し寄せる。

かくて,『廃語の風景』というコラムを書きたい願望が永遠に続く限り,私は完全無欠の不死身となるのである。恐れ入ったか,閻魔サマ。

 

『新聞配達』

少し前,「牛乳配達」について書こうとしたことがあった。かつて早朝の風景の中に,朝刊を配りながら駆けていく新聞少年たちと,ガチャガチャ牛乳瓶のぶつかる音を立てながら走る牛乳配達の自転車があった。新聞配達は今でも当たり前だが,牛乳配達はめっきり見なくなったと感じていたので,『廃語の風景』に相応しいと考えたわけだ。

ところがいろいろ調べていくうちに,牛乳の宅配は一時期なくなりかけたが,1990年代後半からやや盛り返してきたことがわかったのだ。そういえば心当たりもあった。ウチにも宅配牛乳の契約を勧める人が時たまやってきて,何度か試供品を貰ったことがある。おまけに牛乳ではないが,ヤクルトの宅配はずっと続けられている現実もある。そういう事情から,「牛乳配達」というネタはボツにしようと判断した次第である。

で,そうしたことを調べていく過程で,新聞配達店の数が近年えらく減少していることに気づかされた。考えてみれば新聞の発行部数は約20年で半減しているし,折り込み広告の収入も激減している。人件費の高騰も問題だろう。あ,そうか。危機に瀕しているのは,牛乳のほうではなく,新聞のほうだったのだ。

おそらく「新聞」そのものは続くだろう。この情報化時代に,手元に届くニュースがなくなってしまうはずはない。紙に印刷された現在のような新聞は将来的に廃止されるだろうが,ネット配信など別の媒体に形を変えて生き残るのは確実だ。とすれば,廃語になる可能性が高いのは,実は「新聞配達」だったのである。

「牛乳配達」から入って紆余曲折した挙句,「新聞配達」に抜けてしまった。おもしろいね,こういうの。だから書くことは,一生やめられない。

 

『お歳暮・お中元』

なにやら今年は「謹賀新年」のあとに,「今年で年賀状じまいとさせていただきます」と書き添える人が多いと聞く。じゃあお年賀の挨拶という習慣がなくなってしまうのかというと,そうではない。ネットを利用して年賀メールを送り合ったり,SNS上で新年の挨拶を交わしたりと,従来の習慣はメディアを変えて引き継がれることになろう。その意味で「年賀状」という言葉はいずれ,廃語というより死語になっていく可能性が高いと言える。

ところが「お歳暮・お中元」となると「年賀状」とは事情が異なる。それらを贈り合う実体そのものが,急速に縮小化しているのだ。「なにも年末とお盆の時期に,毎年決まって贈り物をする必要はない。特別なことが起こったときには,きっちりお届け物をしているのだから」。社会全体でそういう考えが主流になったとき,「お歳暮」や「お中元」は廃語となっていくのだろう。

個人的には,このような合理性には基本的に大賛成だ。ただ,一抹の危惧も感じてしまう。それは年末・年始やお盆から,歴史的背景をもった習俗・行事という側面を見失ってしまわないかということである。例えばクリスマスにしても,イエス・キリストの生誕祭であるという本来の意味合いをまったく知らずに,フライドチキンとケーキを食べながらプレゼントを交換するだけの日と思い込むのはおかしいだろう。同様に,年神様をお迎えする準備をしたり,寺社に初詣に出かけたり,盂蘭盆に際して先祖供養をしたりといった,日本人としてのアイデンティティーに関わる観念まで失くしたら本末転倒だ。虚礼廃止と伝統を粗末に扱うこととは絶対に混同してはならないと思う。

 

ガラケー

今年のクリスマス,自分へのプレゼントとして新しいスマホを買った。それもちょっといいやつを奮発した。12月25日に届き,ネット配信の動画をいろいろ参考にしながらやっとデータ移行が済んだばかりである。

先代のスマホは2021年の10月に手に入れたもので,それまで私はガラケーを使い続けていたのである。新しいモノ好きな私にしてはスマホへの乗り換えが遅すぎたと言われても仕方がないのだが,これにはある思惑があったためだ。それは,2022年3月31日から4月1日に日付が変わるとき,auで3Gのサービスが終了となる歴史的な場面に立ち会いたいという一念なのだった。誰かに電話をかけながら最後を迎えた瞬間,どのように通信が切れるのかを知りたかったのである。ところが悲しいかな,あと半年というところでガラケーが調子を崩してしまい,泣く泣くスマホの契約に踏み切ったのだ。万事休す,野望は一瞬にして絶たれたのである。信長の無念や忍ぶべし。

最後に残ったNTTドコモが2026年3月末で3G通信サービスを終了するので,それをもってガラケーは終焉の時を迎える。時代がひとつ,完全に移り変わるのである。さて,そうなると「ガラケー」が廃語に仲間入りする時間的・社会的条件はどういうものだろう,と考えてしまうのだ。

ガラケーの形をとりながら中身はスマホ,という「ガラホ」だって販売されている。これをガラケーの後継と判断すべきか別物と見るべきか,議論が分かれるところだ。それに,いまだに「ガラケーのほうが良かった」と宣(のたま)う人もそれなりにいるのである。単なる懐古趣味とも言えない。なにぶんガラケーのほうがスマホより,携帯性という点では明らかに優れている。実際私自身,仕事全般やネット通販などはPCを中心に運用しているし,外出時もノートPCやタブレットを持ち歩くスタイルだ。電話と簡単なメールだけなら,今でもガラケーでじゅうぶん事足りるし,胸ポケットに入れても軽いのは重宝なのである。

おそらくガラケーの時代を知っている人が極めて少なくなってからしか,「ガラケー」を廃語扱いすることはできないのだろう。あのダイヤルキーや十字キー,センターボタンに触れたときの感触は,なかなか手指の記憶からは消えていかない。ある言葉が「廃語」になるかならないかは,御大層なことだが,最終的にはその身体性が決めると見て間違いなさそうだ。

 

今回は,そのうち廃語の仲間入りしそうな言葉を3つ選んだが,そんな言葉は探してみるとまだまだありそうだ。案外,「廃語」よりこっちのほうの言葉を考察したほうが面白そうである。来年はおそらく,『廃語予備軍の風景』という新シリーズが幕開けを迎えることだろう。

 

知らんけど。

 

♪ “Hajimete No Chuu (My First Kiss, Chuu)”  Platina Jazz

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