13歳の美空ひばりが『東京キッド』を歌ったのは,1950(昭和25)年。当時はまだ戦後の占領政策が続いており,私などはこの世に影も形もなかった。折しも朝鮮戦争による特需で好景気が訪れ,日本は戦災からの復興に大きく踏み出した時代である。
♪ 空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール
建築基準法が施行されたのも同じ年だ。敗戦後5年が経過し,空襲で焼け野原となった東京の街にも建設ブームが訪れようとしていた。街のあちこちに新しいビルディングが建ち始め,ところどころに舗装された道路が現れ,足元には真新しいマンホールも見受けられるようになってきた。そんな変革の時代を背景に,『東京キッド』は空前のヒットとなったわけである。
やがて都心にはオフィスビルが軒を連ねるようになり,地上から空を仰げばビルの屋根が稜線のように見えたことだろう。ターミナル駅の周辺では新しく建てられた商業ビルやデパートが,より豊かな生活を目指して活気を取り戻していただろう。デパートの屋上から何本も浮き上がった色鮮やかなアドバルーンは新時代の繁栄の象徴となり,人々の目には明るい未来への懸け橋のように映ったに違いない。
そんなアドバルーンを見かける機会は,今ではほとんどなくなってしまった。その栄枯盛衰の風景を少し追ってみたい。
アドバルーンは,「広告」を表す advertisement と「気球」を表す balloon を組み合わせて作った和製英語で,一般には「広告気球」と訳される。直径2~3mの気球の中には空気より軽いヘリウムガスが充填されている。だからそのまま空中に放てばどこまでも飛んで行ってしまうので,ロープをつけてその端をビルの屋上などに係留しておく。そのロープで繋がっている部分に宣伝文句などを書いた垂れ幕を固定して掲揚すると,遠くからでも宣伝文句が視認できる。浮遊する気球に引っ張られ,空中高く広告の幕が掲げられる様子が人目を引き,宣伝効果が上がるというわけだ。
意外に思われるかもしれないが,実はアドバルーンは1907(明治40)年に日本で考案されたものである。実際に民間の広告に使用され始めたのは大正時代からで,高いところに垂れ幕を配置できる割には簡単な設備で事足りる。費用が安いこともあり,昭和に入ってますます広く用いられるようになった。
日本でアドバルーン広告が発達した一方,欧米ではあまり用いられることはなかった。それは至極簡単な理由からだ。垂直方向に掲揚される垂れ幕は,タテ書きができる日本の文字には都合が良くても,ヨコ書きしかできない欧米文字にはまったく向いていないからである。ヨコ書きのアドバルーン広告を打つためには最低でも気球を2個打ち上げ,その間に幕を張るしかないから不便なのだ。それで欧米では,側面に宣伝文句やロゴマークなどを描いた大型の気球を空中に浮かべるか,あるいは飛行船を飛ばすといった方法が採用されたようである。
アドバルーンは広告宣伝のためだけではなく,1936(昭和11)年に起こった二・二六事件の際にも使用された。クーデター鎮圧のため,「勅命下る 軍旗に手向かふな 戒厳司令部」と書かれたアドバルーンが首都東京の空に掲揚されたのだ。参加した将兵たちはどんな思いで,この物々しい文句が翻る様を見上げたことだろうか。
アドバルーンを使った広告が最盛期を迎えるのは,高度経済成長期の昭和30~40年代前半(1955~1969年)にかけてだ。直接一次資料で確認した数値ではないが,多い時で1日に100本以上,年間では10,000本以上のアドバルーンが,この国の空に舞い上がったと言われている。都市部ではデパートなど大型商業施設の屋上から掲揚されることが多かったが,郊外に行くと個人商店からも掲げられた。建物の屋上からだけでなく,周囲の田畑を借りて掲げられたりもしたらしい。店舗の新装オープンや,お中元・お歳暮・バーゲンの時期に合わせて,アドバルーンの数は増えた。商業施設だけでなく各種イベント会場でも,これを利用してイベントの内容を宣布したり,客寄せの面でも大きく効果を発揮したりした。
高度経済成長の時代は,とにかく大きく派手なものがウケた。目立つことが重要だった。アドバルーンという広告メディアは,そうした要望にふさわしい形態となった。都市生活者を中心に所得は右肩上がりのグラフを描き,家庭の中には3種の神器と呼ばれる電化製品が急速に普及した。やがてモータリゼーションの波が訪れ,マイカーを持つことも夢ではなくなってきた。心の中に上昇志向を持つ多くの人々は,常に視線を上に向けて暮らしていこうとしていたのだ。
アドバル-ンに翳りが見え出したのは,カラーテレビの普及が目覚ましくなった1970年代である。ひとたびテレビのスイッチを入れるや,鮮やかな映像と音楽に彩られた広告がいくつも流れ,大衆の消費行動はテレビコマーシャルによって促される時代となった。「広告は時代を映す鏡」と言われたのもこの頃である。テレビの持つ広範囲な影響力と映像の圧倒的なアピールは,たちまちのうちにアドバルーンを凌駕した。加えて,航空法の見直しや都市景観条例の整備なども,アドバルーンには不利に働いた。
時代が進むと,都市部では高層ビルの建築が目立ってきた。アドバルーンが係留されていたデパートの屋上よりも,はるかに階層の高いオフィスビルやマンションが立ち並ぶようになったのだ。次第にアドバルーンは都市の景観の中に埋もれてしまうようになり,広告としての優位性を保てなくなったのである。そうなるとアドバルーン広告にかかる費用対効果も,急速に下落していく結果となった。
さらに時代は超高層ビルの出現を迎える。かつて東京の淀橋浄水場跡地を再開発した新宿副都心には,今では高さ100mを超える超高層ビルが数十棟単位で林立している。48階建ての東京都庁第一本庁舎(243メートル)をはじめとして,200メートルを超えるものも10基以上ある。そんな街の底辺に立つことがあったら,いちど超高層ビルの屋上を見上げてみるといい。首が疲れて,何分も見上げていることは困難なことがすぐにわかる。
アドバルーンには,適正仰角があるように思える。例えば8階建てのデパートの屋上から舞い上がったアドバルーンは,近くからでも少し離れたところからでも,見上げて眺める楽しさがあったのだ。だが高層ビルの屋上から掲揚された場合はどうだろう。近くで見上げるには首がつらいし,かといって離れて見上げればキャッチコピーは小さすぎて視認することができまい。ましてや横浜ランドマークタワーやあべのハルカスの屋上からアドバルーンを掲げるなど,誰も思いつこうとはしないだろう。
美空ひばりが「♪空を見たけりゃビルの屋根」と歌ったビルの屋根は,少し階段を昇れば自分の足で到達できる高さのところにあったのだ。もしかすると人々はその高さを見上げるのと同じ仰角で,人生の夢や希望を追っていたのかもしれない。超高層ビルの屋上はあまりに高く,さすがに自分の足ではたどりつけない。だから西新宿の底辺に立って超高層ビル群の屋根を見上げた時,心には絶望感に似た感情を抱いてしまうのだろう。
超高層ビルの最上階が展望台になっているケースもある。つまり超高層ビルの最上階は,下から見上げる場所ではなく,上から見下ろす場所としての意味を持っているのだ。そして人はみな,スマホのカメラを下に向けて下界の写真を撮る。電車に乗ってもうつむき加減にスマホから目を離さない。
絶望の深さと夢の高さは比例する。戦後の焼け跡から高度経済成長へと時代が移り変わる中で,アドバルーンは上を見て暮らしていこうとする人々の心に小さな花を咲かせた。現実がその夢や望みを遥かに越えていったとき,アドバルーンは空から消えた。だからといって,上を向いて歩く心を人が容易く手放していいわけはない。視線の向ける先や角度を選択する自由を,私たちは両手に余るほど持っているのだ。
♪『上を向いて歩こう』 Sing for Hope プロジェクト
https://www.youtube.com/watch?v=lBNJIhfa9Zs&list=RDlBNJIhfa9Zs&start_radio=1






