『廃語の風景』というシリーズのコラムを書くにあたって,私はまず「死語」と「廃語」を明確に分けようと試みた。「死語」は,実体は存在するがそれを表すのに時代遅れになってしまった言葉を指す。例えば流行の最先端を行く若者はいつの時代も存在するけれど,彼らを指して「ナウなヤング」とは言わなくなった。これが典型的な死語である。
対して「廃語」とは,実体がまったく世の中から消え去ったか,あるいはほとんど見かけられなくなったことによって,日常的に使われなくなってしまった言葉と定義する。最近のコラムから引用すると,「よろめきドラマ」「種痘」「銀玉鉄砲」なんかがそれにあたる。
だから大雑把に言うと,死語は言葉の流行性・はやりすたりといったものに影響され,廃語は具体的な事物や現象の歴史性に影響される,ということになる。言いかえれば,死語が発生するのはその言葉が流行遅れと思われ始めたときであり,廃語が発生するのはその事物や現象の立ち位置が現在から過去に移行したときであるということだ。
以下に挙げる3つの言葉は,現在では世の中に生命力を保っているが,そのうち歴史の彼方へ立ち位置を変えてしまうと予測されるものである。その「時」はいつごろ,どんなふうに現れるのであろうか。その時に際して,私はどんな風景を書くことができるのだろうか。ワクワクすると同時に,結末をきちんと見届けるまでは絶対に死ぬわけにはいかないという使命感が胸の中に怒濤(どとう)の如く押し寄せる。
かくて,『廃語の風景』というコラムを書きたい願望が永遠に続く限り,私は完全無欠の不死身となるのである。恐れ入ったか,閻魔サマ。
『新聞配達』
少し前,「牛乳配達」について書こうとしたことがあった。かつて早朝の風景の中に,朝刊を配りながら駆けていく新聞少年たちと,ガチャガチャ牛乳瓶のぶつかる音を立てながら走る牛乳配達の自転車があった。新聞配達は今でも当たり前だが,牛乳配達はめっきり見なくなったと感じていたので,『廃語の風景』に相応しいと考えたわけだ。
ところがいろいろ調べていくうちに,牛乳の宅配は一時期なくなりかけたが,1990年代後半からやや盛り返してきたことがわかったのだ。そういえば心当たりもあった。ウチにも宅配牛乳の契約を勧める人が時たまやってきて,何度か試供品を貰ったことがある。おまけに牛乳ではないが,ヤクルトの宅配はずっと続けられている現実もある。そういう事情から,「牛乳配達」というネタはボツにしようと判断した次第である。
で,そうしたことを調べていく過程で,新聞配達店の数が近年えらく減少していることに気づかされた。考えてみれば新聞の発行部数は約20年で半減しているし,折り込み広告の収入も激減している。人件費の高騰も問題だろう。あ,そうか。危機に瀕しているのは,牛乳のほうではなく,新聞のほうだったのだ。
おそらく「新聞」そのものは続くだろう。この情報化時代に,手元に届くニュースがなくなってしまうはずはない。紙に印刷された現在のような新聞は将来的に廃止されるだろうが,ネット配信など別の媒体に形を変えて生き残るのは確実だ。とすれば,廃語になる可能性が高いのは,実は「新聞配達」だったのである。
「牛乳配達」から入って紆余曲折した挙句,「新聞配達」に抜けてしまった。おもしろいね,こういうの。だから書くことは,一生やめられない。
『お歳暮・お中元』
なにやら今年は「謹賀新年」のあとに,「今年で年賀状じまいとさせていただきます」と書き添える人が多いと聞く。じゃあお年賀の挨拶という習慣がなくなってしまうのかというと,そうではない。ネットを利用して年賀メールを送り合ったり,SNS上で新年の挨拶を交わしたりと,従来の習慣はメディアを変えて引き継がれることになろう。その意味で「年賀状」という言葉はいずれ,廃語というより死語になっていく可能性が高いと言える。
ところが「お歳暮・お中元」となると「年賀状」とは事情が異なる。それらを贈り合う実体そのものが,急速に縮小化しているのだ。「なにも年末とお盆の時期に,毎年決まって贈り物をする必要はない。特別なことが起こったときには,きっちりお届け物をしているのだから」。社会全体でそういう考えが主流になったとき,「お歳暮」や「お中元」は廃語となっていくのだろう。
個人的には,このような合理性には基本的に大賛成だ。ただ,一抹の危惧も感じてしまう。それは年末・年始やお盆から,歴史的背景をもった習俗・行事という側面を見失ってしまわないかということである。例えばクリスマスにしても,イエス・キリストの生誕祭であるという本来の意味合いをまったく知らずに,フライドチキンとケーキを食べながらプレゼントを交換するだけの日と思い込むのはおかしいだろう。同様に,年神様をお迎えする準備をしたり,寺社に初詣に出かけたり,盂蘭盆に際して先祖供養をしたりといった,日本人としてのアイデンティティーに関わる観念まで失くしたら本末転倒だ。虚礼廃止と伝統を粗末に扱うこととは絶対に混同してはならないと思う。
『ガラケー』
今年のクリスマス,自分へのプレゼントとして新しいスマホを買った。それもちょっといいやつを奮発した。12月25日に届き,ネット配信の動画をいろいろ参考にしながらやっとデータ移行が済んだばかりである。
先代のスマホは2021年の10月に手に入れたもので,それまで私はガラケーを使い続けていたのである。新しいモノ好きな私にしてはスマホへの乗り換えが遅すぎたと言われても仕方がないのだが,これにはある思惑があったためだ。それは,2022年3月31日から4月1日に日付が変わるとき,auで3Gのサービスが終了となる歴史的な場面に立ち会いたいという一念なのだった。誰かに電話をかけながら最後を迎えた瞬間,どのように通信が切れるのかを知りたかったのである。ところが悲しいかな,あと半年というところでガラケーが調子を崩してしまい,泣く泣くスマホの契約に踏み切ったのだ。万事休す,野望は一瞬にして絶たれたのである。信長の無念や忍ぶべし。
最後に残ったNTTドコモが2026年3月末で3G通信サービスを終了するので,それをもってガラケーは終焉の時を迎える。時代がひとつ,完全に移り変わるのである。さて,そうなると「ガラケー」が廃語に仲間入りする時間的・社会的条件はどういうものだろう,と考えてしまうのだ。
ガラケーの形をとりながら中身はスマホ,という「ガラホ」だって販売されている。これをガラケーの後継と判断すべきか別物と見るべきか,議論が分かれるところだ。それに,いまだに「ガラケーのほうが良かった」と宣(のたま)う人もそれなりにいるのである。単なる懐古趣味とも言えない。なにぶんガラケーのほうがスマホより,携帯性という点では明らかに優れている。実際私自身,仕事全般やネット通販などはPCを中心に運用しているし,外出時もノートPCやタブレットを持ち歩くスタイルだ。電話と簡単なメールだけなら,今でもガラケーでじゅうぶん事足りるし,胸ポケットに入れても軽いのは重宝なのである。
おそらくガラケーの時代を知っている人が極めて少なくなってからしか,「ガラケー」を廃語扱いすることはできないのだろう。あのダイヤルキーや十字キー,センターボタンに触れたときの感触は,なかなか手指の記憶からは消えていかない。ある言葉が「廃語」になるかならないかは,御大層なことだが,最終的にはその身体性が決めると見て間違いなさそうだ。
今回は,そのうち廃語の仲間入りしそうな言葉を3つ選んだが,そんな言葉は探してみるとまだまだありそうだ。案外,「廃語」よりこっちのほうの言葉を考察したほうが面白そうである。来年はおそらく,『廃語予備軍の風景』という新シリーズが幕開けを迎えることだろう。
知らんけど。
♪ “Hajimete No Chuu (My First Kiss, Chuu)” Platina Jazz
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